「日本人の8割がTwitterの短文すら理解できない?」…急増する"バカ"の正体 | ニコニコニュース



日本人の3人に1人が日本語が読めない」「パソコンを使って仕事ができない人が9割」……それでも国際調査では「日本は先進国で一番頭がいい」結果だという。報道やSNSで次々に現れる「バカ」と、調査結果のズレは何か。人気作家・橘玲氏が「バカと無知」の真実を解説する。11月25日(金)発売の「プレジデント」(2022年12/16号)の特集「頭がいい思考、バカの思考」より、記事の一部をお届けします――。

■終戦直後からIQは上昇している

日本人はどんどんバカになっている」と感じる人が増えているようですが、これが正しいかどうかは、そもそも「バカ」とはなにか、ということから考えなくてはなりません。

元首相を銃撃するのが愚行であることは間違いありませんが、だからといって容疑者の男が「バカ」だとは言えません。そればかりか、SNSの投稿を読んでも、複数の資格を取得していたことからも、高い知能と能力をもっていたようです。

それにもかかわらず、社会からも性愛からも排除されたことで、テロリズムが自分の存在を正当化する唯一の手段になってしまったのではないか。だとしたら、「バカなこと」をしたのはアイデンティティの問題です。

「バカ」のもっともシンプルな定義はIQ(知能指数)を基準にすることでしょうが、これについては、日本だけでなく世界的にIQが一貫して上昇しているという頑健な証拠があります。「フリン効果」と呼ばれますが、1940年代から2000年代にかけて、60~70年間で40ポイント以上、およそ3標準偏差の上昇が見られます。

私たちがよく知っている偏差値では50を平均として1標準偏差が10ポイントですが、IQは100を平均として1標準偏差が15ポイントです。3標準偏差というのは、偏差値が50から80に上がったことに相当しますから、ものすごいちがいです。今の日本の若者は、終戦直後の日本人に比べて、とてつもなく賢くなっているのです。

フリン効果については、知能そのものが上昇したのではなく、知能検査の問題に慣れただけだなどの議論もありますが、「日本人が劣化している」というのは俗説の類いでしょう。

だとしたら今起きているのは、「バカ」が目立つようになったということではないでしょうか。

■SNSの登場で教養主義は崩壊

かつては、「教養」が人々の上に燦然と輝いていました。中国の科挙は、身分や血統、武力ではなく、賢い者が社会を統治するというきわめて「リベラル」な制度でした。日本を含め、中国文明の強い影響を受けた東アジアはどこも識字率が高く、学歴を重視する社会になっています。

戦後日本は、悲惨な戦争への反省から、2度と「バカなこと」を繰り返さないために、教養を涵養(かんよう)することが大切だとされてきました。教養主義を象徴したのが朝日新聞岩波書店の文化人たちで、東大・京大などの高偏差値大学出身の彼ら(ほとんどが男)が、政治家、官僚、大学教授などのエリートになって、社会の上層部を形成してきました。

全国紙や論壇誌、教養番組などのハイカルチャーに登場するのも、こうした教養人ばかりで、いわば「上級国民」です。それに対して「下級国民」である大衆は、自分たちの意見をメディアで発信することなどできず、スポーツ新聞や週刊誌テレビお笑い番組などを楽しんでいればいいとされてきました。

こうした「エリート支配」を大きく変えたのが、SNSであることは間違いありません。ツイッターには、バラク・オバマ元米大統領イーロン・マスクのような1億人以上のフォロワーをもつ超セレブがいますが、社会的・経済的な地位や学歴でフォロワー数が決まるわけではありません。すべての参加者が平等な立場で、誰がもっとも人々を惹きつける発言をしたかを競っている。いわば、「言論空間の民主化」です。

今では、日本国の首相よりもインフルエンサーのほうが大きな影響力を持つようになりました。そればかりか、非エリートが、「対等な立場」でエリート(専門家)を批判することも当たり前になった。新型コロナワクチンについて、免疫学の専門家に対して、匿名のアカウントから「ウソをつくな」などの罵詈雑言が飛んでくるというのが象徴的な事例です。

こうして、エリートと非エリートの区別がなくなり、教養主義は崩壊しました。SNS時代には、誰もが主観的には「知的」なのです。

■ツイッターの短文すら8割が理解できない?

「誰もが平等に知的である」というのは、言うまでもなく幻想です。そもそも私たちは、自分で思っているほど賢くありません。

各国の子どもの学習到達度を示すのが「PISA」ですが、「PIAAC(国際成人力調査)」はその大人版です。16~65歳を対象に、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITスキル」を調べたもので、2011~12年に、OECD加盟の先進国を中心に、24の国と地域で実施されました。

PIAACの「レベル3」は「小学校5年生程度」のスキルで、「読解力」の問題例では、図書館ホームページの図書検索結果から、設問にある書籍の、著者が誰なのかを聞いています。

「そんなの簡単すぎる」と思うでしょうが、驚くべきことに日本の成人の正答率は72.3%です。「レベル4」の問題例は、「150文字程度の本の概要を読み、質問に当てはまる本を選ぶ」ですが、日本人の8割近くが不正解です。ツイッター140文字ですから、ユーザーの大半が内容を正しく理解できていない可能性がある。

「数的思考力」のレベル3の問題例は立体図形の展開ですが、正答率は62.5%。「ITスキル」のレベル3は「メールを読み会議室の予約処理をする」という、事務系の仕事では最低限必要な能力を試す課題ですが、これをクリアできた日本人はたったの8.3%……。

これらの結果をまとめると、以下のようになります。

日本人の約3分の1は日本語が読めない。

日本人の3分の1以上が、小学校3、4年生以下の数的思考力。

パソコンでの基本的事務作業ができるのは日本人の1割以下。

日本人がそこまでバカなわけない!」とショックを受けるかもしれませんが、安心してください。この成績でも、日本人は「読解力」「数的思考力」「ITスキル」いずれにおいても先進国で1位であったのです。

■「できる」人の数だけ「できない」人がいる

「PIAAC」についてメディアがほとんど触れないのは、「経済格差の背景には知能の格差がある」という不都合な事実を暴いてしまったからでしょう。リベラルな社会はこれまでの間ずっと、知能のばらつきから目を背けてきました。

ベストセラーになった『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)で、児童精神科医の宮口幸治氏さんは、医療少年院などで出会った子どもたちの多くが境界知能で、ケーキを三等分することができないことを指摘し、日本社会に大きな衝撃を与えました。

現在の日本では、「知的障害」はIQ70(偏差値換算で30)未満とされていますが、1950年代まではIQ85(偏差値換算で40)未満が基準でした。この見直しによって、IQ70~84(偏差値換算で30~40)は「ふつうの子ども」とされ、高校や大学を卒業して社会に溶け込むことが期待されたわけですが、現実には学校教育から途中で脱落することとなり、社会の底辺層を形成しています。

境界知能では、小学校高学年以降に登場する抽象概念を理解することが困難ですが、それは「本人の努力が足りない」からだとされ、適切な支援を受けることもなく放置されています。

偏差値(知能)はベルカーブで、平均(偏差値50)付近がもっとも多く、平均から外れるほど人数が減っていきます。メディアは一流大学に入れる偏差値70や80の子どもたちばかりを話題にしていますが、その反対側には、同じ数の偏差値30や20の子どもがいます。

この事実を無視するのは、読者・視聴者を不快にすると恐れているからでしょう。このようにして、社会は偏差値60ぐらいを基準に構築されるようになります。税金の申告が典型ですが、大学を出ていても、自力での手続きが難しすぎてあきらめてしまう人がたくさんいますよね。

■知能は努力か才能か?

「知識社会」は定義上、知能の高い者が大きなアドバンテージをもつ社会ですが、こうした当たり前のことを言うと、「人間を能力で決めつける差別だ」と言われてしまいます。皮肉なのは、社会正義を求める人たちこそが、この知識社会をつくってきたということです。

リベラルな社会では、人種や性別、出身地、性的指向など、「変えられない属性」によって個人を評価することは差別として否定されます。しかしその一方で、組織を運営するには、誰を採用・昇進させるか評価をしなくてはなりません。

個人の「属性」で評価できないとしたら、残るのは「努力によって獲得したもの」だけです。それが「学歴・資格、実績、経験」という“メリット”で、それのみで社会的・経済的地位が決まるリベラルの理想が「メリトクラシー」社会です。

メリトクラシーによって私たちは身分制から解放されましたが、「知能は個人の努力で向上するのか」という新たな難題を突き付けられました。行動遺伝学は知能の遺伝率が60~70%であることを半世紀かけて証明しましたが、この事実がずっと無視されてきたのは、知能の遺伝を認めてしまうと、メリトクラシーを支えていた土台が崩壊してしまうからです。

■不遜なバカと謙虚な賢者

「バカ」の問題は、自分がバカであることに気づいていないことです。これは、ダニング=クルーガー効果という認知バイアスとしてよく知られています。

大学生テスト結果と、自らの予想を調べたところ、論理的推論能力(数学)では、下位4分の1の学生は、実際の平均スコアが12点だったにもかかわらず、自分たちの能力は68点だと思っていました。それ対して上位4分の1の学生は、平均スコアが86点にもかかわらず、自分たちの能力は72点しかないと思っていたのです。

「バカ」は自分を(大幅に)過大評価し、賢い者は自分を過小評価している。この錯覚によって、現実に存在する知能のばらつきが見えなくなり、誰もがより平等になります。

これはリベラル化の影響ではなく、おそらくは進化の適応でしょう。知能だけでなく、外見や運動能力まで、集団にはかなり大きなばらつきがありますが、それを客観的に序列化してしまうと、共同体が成立しなくなってしまいます。殺し合いにならず、みんなが(それなりに)仲良くするためには、能力の劣る者が自分を過大評価して自信をもち、能力の秀でた者が過小評価で謙虚になるくらいがちょうどよかったのでしょう。

■バカとの「遭遇」が増えていた

能力の過大評価は、「自分の能力が劣っていることを認められない」ということでもあります。社会心理学では、私たちはみな脳に高感度の「自尊心メーター(ソシオメーター)」を埋め込まれていると考えます。

学校や会社、SNSなどでみんなから高い評判を得ると、自尊心メーターが上がって幸福感に満たされます。それに対して、職場で叱責されたり、学校で仲間外れにされたり、SNSで炎上したりすると、殴られるのと同じ痛みを感じることがわかっています。

私たちは、すこしでも自尊心を上げようとすると同時に、自尊心が下がるような事態をなんとしても避けようと、死に物狂いの努力を(無意識に)しています。自分が劣っていることをぜったいに認めず、自分と相手を対等とみなす傾向は、自尊心を守るために進化したのでしょう。

さらにやっかいなのがマウンティングで、自分よりステータスの高い者を引きずり下ろしたり、ステータスの低い者に優位性を誇示すると、脳の報酬系が刺激され、強い快感を覚えます。皇族への過剰なバッシングが問題になりましたが、なぜあんなに夢中になるかというと、「皇室を守るため」などと正当化するのでしょうが、本音を言えば、皇族やその関係者にマウンティングすることで大きな快感を得られるからでしょう。

これが人間の本性だとすると、問題なのは「日本人の劣化」ではなく、そうした闇の部分をテクノロジーグロテスクなまでに拡張していることです。SNSが登場してわずか20年足らずですから、数百万年かけてゆっくりと進化してきた脳が、急速に変化していく現代社会に適応できるわけがないのです。

ここまで「バカ」について述べてきましたが、これは社会が「賢い者(エリート)」と「バカ(非エリート)」に分かれているという話ではありません。脳の認知能力には強い制約があり、私たちはほぼすべてのことを直観で(非合理的に)判断しています。ある面では賢い人も、別のことではバカな行動をするというのは、いくらでもあるでしょう。その意味では、わたしたちはみんな「バカ」ですが、その度合いには(わずかな)違いがあります。リベラル化・大衆社会化によって、そんな「バカ」と遭遇する頻度が増えているというのも間違いないでしょう。

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橘 玲たちばな・あきら)
作家
近著『バカと無知』(新潮新書)は発売1カ月で10万部超えの大ヒット。『言ってはいけない』(同)など、著書多数。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lolostock


(出典 news.nicovideo.jp)

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